かわいそうな私という偶像

”社会主義(共産主義)は偶像崇拝である。”


そう聞いてピンと来る人はいるだろうか?
ここ数ヶ月で一番心を動かされた話で、ことあるごとにこの言葉が心に浮かぶ。
この5月の質疑応答は何度か視聴することを強くおすすめする。


動画は”相続”の話がメインですべて(パート4.5がなくパート6まで)見ると
深刻にならざるをえないがその話は長くなるので触れないことにする。
ある意味で閲覧注意な動画だ。
※翻訳者様いつもありがとうございます。

国進ニム・質疑応答 5/27/2017



絶えず嫉妬の思いは生じます。自分自身の向上に目を向けないからです。苦労して、個人としての自己を見ようとしないからです。つねに自分を人と比較する。そう、根っこに他人への嫉妬があるのです。出て行って自分で人生を切り開こうとしない。

 惨めな自分の中に自分のアイデンティティを見つけようとする。結局それは何ですか?その自己中心の塊は?偶像崇拝です。

 社会主義の基礎は、偶像崇拝なのです。犠牲者である自分を崇拝しているのです。ここで十戒に戻るのです。だから神様はわれわれに偶像崇拝を禁じたのです。


試練があった時、弱者になった時、どういうふうに考えて乗り越えて行くべきか
という話だ。”かわいそうな私”だから援助を受けて当然、愛されて当然と思う。
惨めな自分の中に自分のアイデンティティを見つけようとする。


この偶像崇拝の考えのルーツはルーシェルだ。最終的に愛を受けたのはアダムとエバ
で私は理解されないかわいそうな存在になってしまった。天使長はそれでも良かったが
人間はそれを受け継ぐべきではなかった。


社会的弱者になってかわいそうな私なのだから国から援助を受けて当然だと思う。
そして平等であるべきだと主張するのが社会主義だ。すべて同じだ。
惨めな自分になった時、それを神様からの祝福だと思って苦労しても乗り越えて
勝利した私になろうと努力するのが王冠を被るものの考えだ。


そういった意味では”韓鶴子教”はかわいそうな一人娘を拝む偶像崇拝といえるだろう。
その根っこに嫉妬がある。


サンクチュアリに来ても過去を引きずり教会の誰々に騙されたと恨みを晴らすように
毒を放つ傾向にある人は要注意だ。その先にあるのは絶望とサタンだ。
奴隷でもなく下僕でもなく神様の息子娘ならピンチをチャンスに変えよう。


偶像を拝むなというモーセの十戒は今でも私の中で戒めとなっている。










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